生きる目的の喪失と時代の価値観

「生きる目的の喪失」とか「アイデンティティーの危機」という言葉を聞くと、いつも思い出す一節がある。

壬生は現代青年の卑しさをひとつひとつ数え立てて、それが一つでも次郎にあてはまるかを考えてみた。お洒落と、簡単な性欲の満足と、反抗的そぶりと、生きる目的の喪失と、それがいずれは、家庭第一主義と、日曜日の芝刈りへのあこがれと、退職金への夢と、…..そういうものは何一つとして次郎にはあてはまらなかった。」 ―三島由紀夫『剣』

「自由」という考え方が多くの人(特に若者)に受け入れられ、人生の選択肢が爆発的に増える中で、自分はいつもそこに同化することができない何か、諸手を上げて賛意を示すことができない何かを感じていた。

この違和感に最初に気づいた時、自分は大学3-4年生だっただろうか。この違和感はその後も続いた。

学部生時代に社会学を勉強していたので、エーリヒ・フロムの「自由からの逃走」はずいぶん前から知っていた。

この本の要旨は「人間は自由を求めるが、自由を与えられると、その自由の負担に耐えられなくなる」、すなわち「自由の代償」というものだが、そういった側面を考慮せずに「自由」をただ礼賛する社会の風潮や若者の言説に、違和感を感じていたのだろう。

「自由」という言葉は、これが使われる大半の文脈でポジティブな含意を持つので、そのネガティブな側面があまり注目されないのは当然とも言える。

今の日本では、何かと過ぎ去った昭和の時代が賛美されているが、あの時代の人間が幸せに見えるのは、人生の選択肢が少なくて、自分の未来が予想可能だったからだ。

通常、未来がどうなるのかわかりきった人生というのは人間を退屈させるものだが、当時の人たちにとっての「未来」とは「これからどんどん良くなっていく」という上昇のイメージが色濃いものであったことは容易に推測される。

ただ同じ日常が続いていくような未来、今よりも何かが悪化していくような予感がする未来こそ、人間を退屈、そして不安にさせる未来だ。

私は現代の若者の不幸、つまり生きづらさとは、自分の人生を選択する勇気と知識の欠如に由来すると思っている。

そして、このような視点から昭和に生きた人たちを眺めると、その大部分は(もちろん感情を持つ人間として日々気持ちの浮き沈みはあったのであろうが)概ね、このような「自分の人生を選択する」という、恐ろしい勇気を持つ必要はなかったように見える。

社会の大きな波に流されていれば、それ相応の幸福が手に入った。

時が経って、いま「未来」という「高み」から厚かましくも高みの見物をすると、「流されていれば」という受動的な表現を使うことになるが、当時の人たちにそのような認識はなかったはずだ。

これも三島の言だが「幸福って、何も感じないことなのよ。幸福って、もっと鈍感なものなのよ。」(『夜の向日葵』)

流されて生きていたとしても、それが当人にとって幸福であれば、当人が満たされていれば、別の種類の幸福を夢想する必要も、それを獲得する欲望も感じることもない。

ある価値観の中で生きている人に、「いや、その価値観はちょっとおかしい。こっちの価値観を持って生きる方があなたはもっと幸福になれる」と教えることは、はたして正しいのだろうか。

これはその人のヌクヌクとして満たされた「幸福」を破壊し、「果たして自分にはこれが一番の幸福なのだろうか?」という終わりなきさい疑の地獄に陥れ、不幸を召喚することになるのがオチではなかろうか。

人間は、その時代のある一定の価値観に束縛されているものだ。

その「時代の価値観」を、そこに生きながらして外側から眺めることは非常に難しい。

誰にとっても、自分の家族や、自分の所属している組織を評価したり、客観的に眺めることは難しい。自分自身を客観的に眺めることがいかに困難であるかを考えればこれは明らかだ。

第三者からしか見えないことは多い。

時が経って振り返ってみて初めて、時代の価値観もよく見えるようになる。

果たして自分の生きているこの時代は、未来の人たちにどのように総括されるのだろうか。

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