誠実に生きる、の意味

ここ数年、「人生を誠実に生きる」ということは、究極的には「自死する」ということと同義なのではないか、という思いが自分の内からどうしても拭えない。

物事を死に結び付けて考える思考法には、いかなる場合でもロマンティシズムとセンチメンタリズムの影響を免れ得ないが、今はそれは斟酌しないでおく。

誠実に生きる=自死、という私の考えに大きな影響を与えているのが三島由紀夫と高野悦子だ。

高野悦子は生前は一介の大学生に過ぎなかった。

彼女の名は、没後の1971年に出版された「二十歳の原点」で広く知られるようになった。

これは、彼女が20歳で自殺をする直前まで書かれた日記を書籍にしたもの。

私は7年ほど前に初めてこれを読んでみて、「人間の生」が持つ根本的な不条理、不如意への彼女の真摯な態度にひどく感銘を受けた。

自死を選ばずにもう少し生きていれば、彼女ももう少し楽になれたのではなかろうか、と当時は思ったけれども、後に、あれが彼女の、というより生命体としての人間の限界だったのだろうと思い直した。

自己の人生に対する真摯で誠実な探求を続けた結果、そのレベルがある閾値を超えてしまい、その時点で彼女に与えられていたエネルギーのすべてを使い切ったので、彼女の人生は幕を閉じた。

「人間は一人一人、人生で使えるエネルギーの量は一定で、それを使い切った時点でその人の生は終わる。若い時にそのエネルギーをたくさん使った人は、死が訪れるのも早くなる。若い頃に歴史に残る名作を残した芸術家とかはその一例だ」。

これは高校時代の美術教諭の発言だが、人間の生に対するこのような考え方は、かなりの妥当性を持っていると私は思っている。

三島由紀夫はその典型だ。

三島由紀夫の書いたものは、文章と文章の間から、おそろしいほどの彼の献身と真面目さ、そしてそこに費やされたエネルギーが渦巻いていて、読み手は自ずと緊張を強いられる。

そして、三島の人生を知れば知るほど、彼の死は必然だったとしか思えなくなる。

文学というものを通して、あそこまで真面目に、誠実に己の人生と向き合ったら、その結末は自死しかない。

右翼への傾倒、天皇崇拝、才能の枯渇、死への憧れ云々と、彼の自死を読み解こうとするアプローチの数々はまさに百鬼夜行のごとくだが、究極的に彼の死は、人間として与えられたエネルギーを45歳までに使い切ってしまったからなのだと私は思っている。

自殺と一言でいっても、その種類は様々だ。

逃避としての自殺もあれば、甘美な自殺もあろう。

しかし誠実に生きた結果としての自殺は、必ずしも非難されるべきものではないはずだ。

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