AI時代を迎えて、より価値の上がる英語能力

AIや自動翻訳の発達で、英語を使えることの優位性が今後は下がっていくという話を時おり耳にしますが、私はちょっとそうは思いません、というお話を。

今となっては特に不自由なく使えるようになったとはいえ、数年前まで私は英語をまったく話せませんでした。

大学受験時、そして卒業後のロンドン留学前に英語を集中的に勉強したので、「読む/聞く/書く/話す」の4つの能力のうち、「読む」「書く」についてはある程できるようになっていました。

ただ「聞く」、「話す」についてはからっきし。

言葉がコミュニケーションの手段として発展してきたことを考えると、「話す/聞く」というのが言葉の第一義的な役割として現れて、その後になって、話したことを記録するものとして文字が発明され、そこから「書く/読む」が発達してきたことは明らかです。

そのような意味で、「聞く/話す」ができないというのは、言語コミュニケーションの本質的なところが欠けているとも言えます。

紙に書いてそれを見せて…という方法もありますが、それはコミュニケーションのスピード感を大幅に低下させます。

人と人との間で、対面にて行われる言葉を介したコミュニケーションは、言葉という記号の単なる交換行為ではなく、そこには話し手・聞き手の表情、身体の挙動、声の大きさ・強さ、アクセントなどの無数の要素が複雑に絡まりあってできています。

また話の盛り上がりには、会話のスピード感も重要となってきます。

昔使っていた英語の参考書に「(英語で聞かれた質問に)1分考えてようやく返事ができました、では何の意味もなさない」と書いてありましたが、まさにその通りだと思います。

とはいえ、ロンドンに移住したらすぐに英語を話せるようになったかというと、決してそんなわけではなくて、「話す/聞く」、つまりスピーキングとリスニングには私もずいぶん長い間苦しめられました。

ライティングはある程度できたので、「紙とペンさえあれば、自分の考えを伝えることができるのになあ」と、当時よく思っていました。

それでも徐々に慣れてきて、ようやく少しは話すことができるようになって、そして聞くこともできるようになってきました。

振り返ってみると、そうなるまで半年以上はかかっていたと思います。

少なくとも渡英して3ヶ月くらいは、進展がほとんどありませんでした。

今でもよく覚えているのが、当時住んでいた街にあった公園のベンチに座りながら、自分の英語力の進展のなさに絶望的な気分になっていたこと。

あれが3ヶ月目でしたので、少なくとも3ヶ月間は目に見える進展がなかったのだと思います。

さて、それからもロンドンでの英語の生活は続き、その後住んだアムステルダムでも英語を使って生活していました。

そういう中で、「ほんの数年前まで全く使うことができなかった英語が今では使えるようになっていて、それで日常生活を送っている」ということを不思議に思うことがたまにありました。

特に誰かと英語で話している時に、数年前の英語を話せなかった頃の自分を突然思い出しては、今と状況がまったく異なっていることに不思議な感覚になりました。

そしてそれと同時に、英語というものに対してなんとも言えない感謝の念も湧いてきました。

英語とは世界に数ある言語のうちの一つ。

そしてその「言語」とは何かというと、人間が使うコミュニケーションツールのうちの一つにすぎないわけですが、私は英語ほど人生において使用範囲が広くて、人生を豊かにしてくれるツールはないと思っています。

特に英語がグローバル・スタンダードになっている今の時代では特に。

人との出会いが人生の楽しみの一つで、かつ人生を豊かにしてくれるものの一つ(もしかしたら「一つ」ではなく「最大のもの」)であると私は確信していますが、英語が使えれば、出会える人の範囲、つながれる人の範囲は爆発的に広がります。

つまりその分だけ人生が豊かになります。

英語を第一言語としていなくても、第二、第三言語として英語を話せる人は世界中にたくさんいて、今後も増えていくのは確実なので、英語が使えればその人たちともコミュニケーションを取ることができる。

日本語は世界で9番目に話されている言語なので、決して少数言語ではありません。

そして世界で日本語を話す9割以上の人が、この日本という国に住んでいます。

そのような意味で日本語を話せるだけで、少なくとも膨大な数の人とコミュニケーションを取れるようになります。

しかし英語が話せれば、日本という地理的な制約を離れて、世界にいる果てしないほどの数の人とコミュニケーションが取れるようになります。

つまりその分だけ、人生を豊かにできる可能性が広がるということ。

「豊かな人生は何か?」という問いには、人の数の分だけ答えがあると思います。

しかし一つだけ誰の人生にとっても欠くことのできない要素は、人との交流だと思います。

人との交流がまったく無い豊かな人生、というものは想像できません。

「人生」とは、自分のことをより深く知っていくプロセスだと私は考えていますが、そのプロセスは自分一人では完結しません。

必ず自分以外の他者の助けが必要です。

そしてその他者とは、多種多様で、そして数が多ければ多いほどいい。

その分だけ自分への理解が深まります。

「自分のことを一番知っているのは自分だ」、「自分のことはなんでも自分の思いどおりになる」と私たちは思いがちですが、実際には決してそうではありません。

人間は自分のことを、自分一人だけでは知ることができないようになっています。

そのような意味で、「豊かな人生」とは他者との交流で自分への理解を深めた先にあるもの、いやむしろ、その豊かな途中経過・プロセスこそが「豊かな人生」と呼ばれるものなのかもしれません。

人生は静止しているものではなく、時間とともに常に流れているものなので、「自分への理解」というプロセスにも終わりはなく、生きている限りは常に途上です。

つまり「自分を理解しきった」という認識に至る時は人生の終わり、死の時だということになりますが、それが訪れるのは死の瞬間なので、「人生を理解した」と感じた次の瞬間にはすでにこの世の住民ではありません。

おそらく実際には、死の間際にそんな認識を感じている余裕もないでしょう。

なので、「自分への理解」というプロセスに完成や終わりはなく、これは「完成」という目的を果たすための「手段」ではなく、まさにどこまでいっても「手段のための手段」ということになります。

しかし、人生の中で、最も有意義でかつ満ち足りた「手段のための手段」でしょう。

さて話をもどして英語ですが、ここまで考えてくると、英語ほど人生を豊かにすることに最適なツールはないのではないかと思えてきます。

AIや自動翻訳の発達で、ビジネスや仕事の場においては、英語を使える人の必要性は低下するかもしれません。

しかし、ビジネスも仕事も「人生」という大きな枠組みの中の一つの構成要素に過ぎず、その人生全体を豊かにするという視点から考えると、英語の必要性が下がっていくとは思えず、むしろますます増加していくと思います。

今後、従来のようにモノだけなく、人の移動もますます盛んになり、国と国の距離が小さくなっていく世界では、物質的豊かさや金銭的豊かさよりも、人間性がより重要になっていくと思います。

つまり、その人がどんな人間であるのか、ということ。

どのようなindividualityを持っているのか、ということ。

国と国を分ける国境は今後も残り続けるでしょうし、それを支える国民国家という概念も、少なくとも私が生きている間は存続し続けるでしょう。

しかし、出身国や民族、文化的バックグランドから「誰であるか」が定義される、これまでのような集団的なアプローチは今後減っていき、それらの文化や民族を踏まえた上での「【個人として】誰であるか」を問われる、より個別的な見方・アプローチが今後は増えていくと思います。

つまり日本人であるというだけでチヤホヤされることはなくなるということで(かつてあったのかどうかも知りませんが…)、その人独自の価値、ユニークさ、人間性、individualityが重視されるということ。

その人間性といったものを養っていくには、繰り返しになりますが、多種多様な人と交流する中で自分への理解を深めていくプロセスが欠かせません。

世界の様々な人と交流する可能性がかつてないほど増えていく中では、ビジネスや仕事などの狭い範囲での英語ではなく、人生を豊かにするツールとしての英語の重要性はますます上がっていくと思います。

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