大都市に住むことの危険

これまで東京、ロンドン、アムステルダムと、その国の首都、つまり一番大きい街にばかり住んできましたが、次回どこか別の場所に住むなら、地方都市に住みたいと思っています。

地方都市といっても、ど田舎というわけではなく、せいぜいその国で5番目に大きい街くらいまでが限度だと思いますが…。

これまで他の国に住む時、首都以外の街にはまったく目をむけなかったので、首都以外を住む場所として選択肢に入れることは自分にとっても意外に感じられます。

首都以外を選択肢に入れ始めた最大の理由は、大都市では常に「受け身でいられる」からで、そのような自分の態度に少し危機感を感じたからです。

3つの首都にこれまで住んできて、結局自分を幸せにできるのは自分自身しかいない、ということに思い至りました。

つまり「住んでいる場所」とか「していること(仕事・勉強)」とか「周りの人」とかというのは、確かに非常に重要な要素ではあるけれど究極的には関係なくて、結局は自分のマインドセットこそがすべて、ということ。

「どうやったら自分は幸せを感じられるか」とか「こうしている時自分は幸せだ」ということを知っている人、つまり「自分の幸せの源泉を自分の内側に持っている人」は、どこに行っても幸福を感じられるだろうし、それがわからずに「自分の外側に自分の幸福を期待している人」というのは、どこに行っても満たされないのではないかな、と思います。

「自分の外側にあるもの」に楽しみとか満足感を求めるのは、周囲の環境や人、仕事などに幸せを依存してしまっているので、その幸福のベースは非常にもろいものです。

対して「自分の内側にあるもの」から幸福をくみ取れる人にとっては、「外側にあるもの」とは「もしあれば自分の幸福を増してくれるものではあるけれど、そこに過剰な期待はしない。なぜなら自分自身ですでに満たされているから」という、必要条件であっても絶対条件ではないものなのだと思います。

幸福の源泉を自分の内側に持つ上で不可欠なのは、「自分自身の幸せについてよく考える」ということで、これができない限りは「自分の外」に楽しみや幸福を見つけ出そうとして、永久にさまよってしまうのだと思います。

そして私が思う大都市に住むことの危険な点は、この「自分の幸せについて考える」というステップを踏まなくても、なんとなく幸せを(or「幸せのようなもの」を)感じられてしまうという点です。

つまり、前述した「(大都市では)受け身でいられる」というのは、大都市には娯楽や刺激が豊富にあるので、自分と向き合って自分の幸せについて深く考えなくても、幸福を感じられている気がしたり、充実した生活が送れているような錯覚を起こしてしまいがち、という意味です。

ただその幸福は外部に依存しているという点で、例えば何らかの理由によりその街を去らなければいけないとか、仕事を辞めないといけないとか、付き合っていた知人が引っ越してしまうといったことで、もろく崩れ去ってしまうもの。

私自身については、ようやく幸福の源泉を内側に求めることの重要性に気づいて、今そのことについて考えているという段階です。

こういうことを考え始めたのも、東京、ロンドン、アムステルダムと住んできて、「外側にあるもの」に幸福を見つけようとしている自分に気がついたからです。

特にアムステルダムにおいてですね。

こちらで以前書いたように、アムステルダム移住前の東京にいた頃の私は、非常に死んだ生活を送っていました。

普通に仕事はしていたので、傍目には他の人と変わらない社会生活を送っているように見えたと思いますが、私の内面の空虚、荒廃はひどいものでした。

そういう中で自然と考え始めたのは「また外国に行けば幸せになれる」ということ。

今になって振り返ると、これは外国に一定期間住んで帰国して、そこで多少のカウンター・カルチャーショックを感じた人が陥りがちな思考法だと思います。

私は基本的に、「いかなる理由であれ、本人に外国へ行く気があるのであれば行ったほうがいい」、つまり「何か『思い』があるなら、しないよりした方がいい」という考えなので、こういう動機であってもどんどん心のままに行動すればいいと思うのですが、ただ自分が次回外国に行く時は、このような動機に背中を押されるのは避けたいと思っています。

これはアムステルダムの経験で学んだことで、アムステルダムに引っ越してみて、最初の頃は非常に幸せで満ち足りていたのですが、そのうち時間が経つにつれて、「することがない」という事実に徐々に目を向けざるを得なくなってきました。

自分の幸せの源泉はすべて自分の外にあるものに依存していて、自分の内側には何もない、ということに否応なく気づかされたのです。

人間、ある「認識」を持つに至るまでは時間がかるようで、「ある日いきなり神の啓示のように降ってくる」というよりかは、幾度となくその予感のようなものが胸をかすめ、残り香をかぐこと数百回に至ってようやく、ある時からそれをしっかりと心でもって捕捉できるようになり、そしてそれが持つ「メッセージ」をはっきりと理解できるようになるのではないでしょうか。

私の場合も結局、このような認識に至るまで1.5年近くかかりました。

そして次に住む場所としては、刺激が多くて依存心を掻き立てる大都市ではなくて、小さめの街に住んで、そこで自分としっかりと向き合って生活する方がベターなのではないかと思い始めました。

実際にこれを実行するかは正直まだ未定なのですが、ただこういう認識に至れたことは大変よかったと思っています。

そうでなければ、また再び大都市を住む場所として、深く考えることなくオートマチックに選んでいたでしょう。

選択の結果はどうであれ、そこに「自分で深く考える」というプロセスを挟んでるかどうかが後々非常に大きな違いを生む。

これはあらゆる物事における一つの真理なのだと思います。

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