日本への嫌悪感が消えた理由

以前、ロンドンから帰国した時にカウンター・カルチャーショック(逆カルチャーショック)に襲われたことを書きました。

参考記事:

「カルチャーショック」というのは、住み慣れた国(通常は母国)を離れて別の国に行った時、そこでの新しい環境や文化にうまく適応できずに起こるもの...
カウンター・カルチャーショックのお話の続きです。 以前の話はこちら: さて2.5年ほどいたイギリスから日本に帰国して、ある日スタ...

当時は日本のすべてが嫌になっていました。

外見ばかり飾って、内容に目を向けないこと。

問題や課題があっても、すべてが「なあなあ」に進んでいくこと。

全員の同意が必要で、物事の決定にやたらと時間がかかること。

日本人の精神のそのみみっちさ、根性の卑しさ、視野の狭さ、卑屈にへりくだった態度、お互いの心の読み合いとばかし合い、物事や人に対面して意見する自分の勇気の無さを「察する」とか「礼儀」とかいったもので誤魔化している面従腹背の態度、わけのわからない根性論、わけのわからない建前、精神の空虚さ、世界の潮流に取り残されていることに気づいていない無知、社会のマイノリティーへの無理解 etc.。

当時も今も私は日本人の一人なので、このような言い方は必ず自己否定を含むわけですが、当時はすべてが嫌で嫌でたまりませんでした。

当時私が働いていた会社も、the Japanese company、終身雇用の元祖みたいなところでしたので、当然組織は保守的で、働いている人も基本的には保守的な人ばかりでした。

メディア系の会社でしたので他の会社よりは風通しが良かったと思いますが、それでも当時の私には大変でした。

業務内容よりも、会社や自分の所属していた部署の空気と自分とを合わせるのが大変でした。

結果的には9ヶ月間日本にいた後、私はオランダに移住します。

移住の大きな理由の一つに、自分の目標を追っていたこともありますが、ただより直接的で当時の自分にとって喫緊だったのは「日本を出る」ということでした。

結婚や海外転勤ではない理由で海外に引っ越す人の大半は、日本に対して複雑な感情を持っている人が多いと思います。

「日本大嫌い」という人もいれば、「好きなんだけど…」のような、言うに言えない気持ちを持っている人が大半なのではないでしょうか。

さて、私はオランダに2年間いて昨年日本に帰国しましたが、「日本帰国」という選択肢は長い間考えたことがありませんでした。

なぜ帰国を選んだのかについては長くなるので、また機会をあらためて書こうと思いますが、「日本帰国」という選択肢は、本当に最後の最後、追い詰められた中で嫌々選ぶものだと長い間考えていました。

これは単純に、帰国してまた以前のようなカウンター・カルチャーショックの状態に陥るのが嫌だったからです。

私のいない2年間で日本が変わっているとは思いませんでしたし、帰国すればまた当時のような「死んだ日々」が待っていることは確実だと考えていたからです。

それにもかかわらず「日本帰国」という選択肢を選び、いま帰国して数ヶ月経っていますが、「果たして私は再びカウンター・カルチャーショックに襲われているのか?」、「また当時のような『死んだ日々』を送っているのか?」と問われると、その答えは「No」です。

意外なほどすんなり日本に溶け込めて、いまも日々の生活の中でそこまでの嫌悪感を感じずに過ごせています。

この理由を考えた時、それは2つあります。

1つ目は、自分の決断で帰国を選んだこと。

「自分で決める」ということの価値や重要性を、今回ほど感じさせられたことはなかったかもしれません。

抽象的な話になりますが、物事を「自分で決める」ということは、自分の意志で行動して、その責任も自分にあるということです。

つまり、何か自分の期待とは違う事が起きた時に、その責任を他の人や周りの環境のせいにする言い訳が存在しないということです。

そうなると人間、主体的にならざるを得なくなります。

誰だって失敗や悪いことが起きるのは嫌で、そしてもしそれが起こってしまった時に責められるのは「過去の自分」という結局「自分自身」だからです。

本来、すべての人は「人生」というもののグリップをしっかりとにぎって、自分の人生を主体的に操縦していくべきなのだと思います。

ただ現実にはそれをやらない人が多い。

これは、かならずしも主体的に生きなくても、命を奪われるわけでも、野たれ死ぬわけでもなく、少なくとも最低限は生きていけるのが民主主義国家だからです。

さて「自分で決める」の逆の場合を考えてみると、もちろんそこには主体性が生まれる余地はありません。

責任を自分で取る必要がないのだから、決めた物事に対して積極的になる必要も、真剣になる必要もない。

失敗しても、その責任は周りの人や環境のせいにできるのだから。

ただ、そうなるとすべてのことに「やらされてる感」が出てきて、その結果精神は蝕まれていきます。

そして当時の私はまさにこれでした。

当時、イギリスからは帰国したくて帰国したわけではなく、帰国したくないにもかかわらず帰国を選ばざるを得ないという状況だったので日本に戻ってきました。

つまり、もう日本に戻った理由からして主体性の欠片もなく、最初の最初から「やらされてる感」満載だったわけです。

ただ今回は、自分で「帰国」という選択肢を選びました。

行動の結果だけ見ると、「日本に帰国した」というところは同じです。

ただそこに至るまでの過程の違い、モチベーションの違いは、後々本当に大きなものがあると今回初めて気が付きました。

次に、日本に嫌悪感をそこまで感じない2つ目の理由。

それは自分の人生が、彼ら彼女ら(私の周りの日本人/この国に住んでいる日本人)とはもはや何の関係もなく、そして今後も何も関係ないことに気づいたからです。

自分は自分の道を歩んでいて、彼ら彼女らは私のその道を変更することはできない。

そして私も彼ら彼女らと同じ道はもう絶対に歩めない。

私の道と、彼ら彼女らの道が今後交差することは決してない。

ここに至ってようやく、この記事の最初の方に書いたような日本人の卑しさだとか、面従腹背ぶりだとか、精神の空虚さだとか、そういったものへの嫌悪感の根が実は「自分の恐怖感」にあったのだと気がつきました。

「自分も、日本にずっと住んでいたら、ああなってしまうのかもしれない…」という恐怖心。

つまり当時の私は、周囲の日本人や街で見かける日本人に自分自身を重ねていて、「日本にい続けたら自分もああいう風に堕ちてしまうんだろうな」と思っていたのです。

ただ当時は嫌悪感だけを感じていて、その根っこが「自分の恐怖心」にあることにはまったく気づいていませんでした。

「自分の人生は彼ら彼女らの人生とはなんの関係もなくて、自分が彼ら彼女らのようになることはもはやありえない」、という境地に数ヶ月前に至って初めてこの根に気づきました。

私も所詮は外国に4~5年住んでいた程度に過ぎませんが、それでも外国滞在の経験は計り知れないほど私という人間を変えました。

日本人か日本人じゃないかという俗な分類で言うと、私はこれまでも日本人で今後も日本人であり続けますが、少なくとも私の意識の上では、私は日本社会の多数派に属する「日本人」ではなくなりました。

ここに至ると、もはや多数派の人間の思考様式や行動規範がどうでもよくなります。

どんなに理不尽に見えるシステムや慣習であっても「彼らがそれでいいと思って従ってるなら勝手にやってればいいや。自分は従わないけどね」という、ある種の「割り切り」ができるようになって、「真の課題」に集中できます。

「真の課題」とは何か?

それは「自分はどう生きていくのか」という課題です。

振り返ると当時の自分は、多数派に属しながら、その中で異議申し立てをしたり、彼ら彼女らの変革を迫ったりしかけていたのだと思います(実際にはしていませんが…)。

ただ多数派の人たちは何があっても変わりません。だから多数派なんです。

私の場合は「多数派は変わらない」という絶望から少数派に属するに至ったわけではありませんが、ただこれまでの生きてきた結果として少数派に属するようになってみると、多数派のことはもう本当にどうでもよくて、「みなさん、勝手にやってて下さい」という感じです。

異議申し立てするのもされるのも、関わり合いになるのも、さらさらご免です。

改めて思うと、こういう態度はアムステルダムのような多文化共生の場所に住む上では必須のもので、私もそういう環境で暮らしていく中で身につけていった態度なのだと思います。

そこでは、様々な過去を背負った、見た目もまったく違う人たちが一つの街に住んでいるので、人のことなんて気にしていられません。

自分と同じ価値観を他人も共有してるはずだと期待したり、自分の価値観を人に押し付けたりするのは本当に愚かしいことです。

つまり「人は人、自分は自分」という割り切りですが、これは日本に住んでいてもある程度は持つべき態度なのだと思います。

そうでないと自分でグリップを握った自分の人生は歩めなくて、どこまで行っても周りの意見や多数派との間に軋轢や摩擦を感じながら、時間を無駄にした人生を送る羽目になってしまいます。

これは他人の人生に対してもそうで、自分と違う生き方をしている人や違う価値観を持っている人に対して、拒否の態度を示したり、変化を迫ったりするのはお互いの時間の無駄でしかありません。

「自分はどう生きていくのか」という真の課題に集中していたら、他人の人生にかかずらう時間なんてない事に気づくはずです。

そして「人は人、自分は自分」という価値観を持つと、本当の意味で他人の人生も尊重にできるし、他人に対する優しさや思いやりも芽生えてきます。

こういう人が増えてきたら、この国はもっと多くの人にとって生きやすい場所になるのだと思います。

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